昭和57年6月1日 月例祭における教話        【 末永信太郎 】



 ・・・喜び、信心の有り難さというものが段々分かってまいります。この神様は新たかな神様だと分かれば分かるほどその心の状態、生活状態も、まあ、変わって来る訳です。今日、午後の奉仕に出て来ました途端でしたけれども。今の三潴の方から沢山お参りがありますが、その中に、中島さんというお婆さんが毎日参ってまいります。時々、孫さんを、まあ、二つぐらいの孫さんを連れて、今日参っておりましたが。どっかそこ辺のところで、転んで柱で頭を打ったらしいんです。

 ああ、まあ、泣くこと泣くこと、まあ、先生が抱っこするけど泣き止みません。そしたら、あの、お婆さんがこう、あの、御祈念しよんなさいよるような感じでしたが、もうピタッと泣き止んだんです。で、ここへ出て来てからもう、親先生私はここにお参りさせて頂くようになって、金光様、親先生助けて下さいと言うともう、神様がどういう事でも聞いて下さいます。

 今も孫がここでスーッてあの、しって?泣きますから、こう、皆さんがあやして下さるけど泣き止みませんから、すぐその、金光様、親先生助けて下さいて言うて、もう御祈念をしない内に、嘘のように泣き止んでおかげを頂きましたと言うて、もうそれこそ感動いっぱいでその事のお礼のお届けがございました。神様は私どもの身近に頂くということは、どういうような場合でも、どういうような事でも、生神様、金光大神様とこう唱えられる。

 して、そこに神様の働きを感じれれるというところに、私は信心、お道の信心の有り難さというものがあるんだと。教義以外、ね、御教えが素晴らしい。ね。金光教は世界の名教だという風に、ここ百年来やっぱ皆さん言うて来ました、私どもも言うて来たけれども。だら、どこがそんなに世界の名教かと問われて見ると、その大して変わらんじゃないか、どこでも何様でも大体変わらんじゃないかといったような感じの、まっ、世界の名教。
してみると、自分よがりの世界の名教であったように思うのです。今日、日田の山奥から、もう必ず一日には、もう家族中で、一家眷族でしょうね。大きな車で、必ずお礼参拝をする方があります、矢幡さんて。沢山、色々果物を使って、その果物の事のお願いを、もうその時、その時に、あの、果物のまあ、実りを願って、またなったら初なりを必ずお供えに持って見えますが、今日はこの箱いっぱい、あの、もうそれこそ一粒えりと言うのでしょう、梅の実をお供えになりました。

 何ですかち、(    )中いっぱい梅です。皆さんどうですか、はっは。これから唇が垂るような感じがしませんか。はっは。梅と聞いただけで、それが見るのですからね。はっは。ちょっと矢幡さん、信心っちゃやっぱここんところばいと言うて、まあ、話したことでした。ね。ここに皆さんがお参りになると、もうとにかく、お手洗い鉢の前に立っただけで、何かジーンとする感じが致します。

 お参りをする、障子を開けると、親先生がここで奉仕しておられる姿に、もう触れただけで有り難くなる。もう、あれもお願いしよう、これもお願いしようと思うとったのが、お願いをする事が無くなってしまう。そんな体験ないですか。ね。梅がすい物だと十分知っておるから、見ただけでも、梅と聞いただけでも、(ちょこう、口水が?)垂れるんですよ。ね。

 合楽の言うならばお広前がいかに有り難いかという事がです、段々分かれば分かるほど、んなら、もうここへ合楽と思うただけで有り難くなったり、お参りを、例えばどういう悩み、難儀を持って参って来て、これも頼もう、これもお願いしようと思うておっても、それを忘れさせるほどしの有り難い雰囲気というか、言うならばここにはお徳が漂うておる。ちょうど、それは梅の実のようなもんじゃないでしょうか。

 見ただけで口水が垂れる。さきほど筑豊支部の支部長であります安東さんが、何をそげん感動しよんなさるだろうかと思うたら、今日は御本を読ませて頂いておりました。何とかていう、合楽で書かれ出されておるご本を読んでおる。それを私はぜんぜん気がつきません。読んだ後にちょっとこう見てみたら、扉のところに、私の紋付姿でしょうかね。その、写真が出ておった。もう、途端に感動が、もう声あげて泣いてしまいましたと、こう言う。何ででしょう。ね。

 日頃、言うならば合楽に傾倒しきっておられる。んなら、いつも合楽で写真よりも実物のを見ておられるけれども。今日ね、そういうご本を読んだ後に、なるほどそうだ、有り難いなと思うておる心で、いわばそこに気がつかなかった写真に触れた時に、ね、こみ上げてくる感動が湧いて泣いてしまったと、こう言われる。とてもこれは信心のない、体験したモンでなからなければ、頂けない私はことだと思います。ね。

 言うならば、神様のお心と言うか、その地味に触れる。ね、そこに有り難いというものが頂けてくる。その有り難いという、その心をいよいよ持って育てて行くという事なんです。ね。そういう意味で、皆さんが、合楽がもっともっと有り難うならなきゃならん、私がもっともっと酸う?ならなきゃいけんという事にもなります。ね。そこにすよい梅干と、言うならば、それを見ただけでも、ここに水気を感じるような有り難いというものが、銘々の心の中に頂けて来る。

 いよいよ信心が有り難い、尊いものになり、真に有り難いと思う心が、ね、みかげという心。いわゆる、三潴の中島さんじゃないですけれども、金光様、親先生とお唱えが出ける。そこにハッキリと神様の働きを見せて頂く、まあ、この頃は息子さんが、もうとにかく病院に行かんならんとが、合楽通いをするもんですから、病院には行かんな、合楽にばっか行ってっちゅうて、まあ、怒られました。

 けれども、現に私がもう痛い痒いを言わんようになっておかげを頂いておるから良いじゃないかと。ね。アンタどんがお初穂が惜しい、旅費がほしいて言うんなら、私はアンタ達からもらわん。ね。と言うて、その、まっ、お参りをして来ております。ね。ところが、この頃は孫達までが、私の後ろからついて来て参るようになり、拝ませて頂くようになり。ほんの今の体験ですけれども、いつもこの調子でおかげを受けておるというようにです。神様はその身近にどういう、こんな事までという事はないです。

 どんな事でも、一心を持ってお願いをすれば、おかげを下さる神様。ね、そのおかげの実感が有り難いという事になる。という、まっ、合楽にご縁を頂いて。ね。その、縁の不思議さ、有り難さをいよいよ分からせて頂かなければならんと思います。昨夜は御礼信話会でございましたから、昨日、もうこの頃の信話会はもう遠隔の方達ばっかり。宮崎、大分、伊万里、福岡辺りはもう近い所です。この近所の方達は、この頃お参りが出けなくなったような感じが。

 それで、方達でいっぱいですから、もう月に何回かしかお参りが出けないという方達ですけれども、言うならば合楽理念。いわゆる御理念によっておかげを受けておる、その実感を一人ひとりが語られました。本当に素晴らしい。昨日は佐田恵介君が司会を致しました。なかなか、本当すばらしい司会を致しました。ですから、その、いつもこう、まあ、ほお、あの人、あんな人には差した事ないちゅうような人達を、まあ、酔っとったんでしょう、きっと。ね。

 最後にあの、古川先生お話をして下さいち言うて言うた。ほれはもう、自分にはお話なんか言わんと思うとるのだから、こう構えとらんところが、途端にその、古川先生と言われたものですから、一雄先生。それでもね、結局、心の中にある有り難いというものは、いつでも、それこそくさく事もいらなければ、洗う事もいらん。自分の心の中にある有り難いとを、そのまま、それこそしっとりとした、まっ、発表を致しておりました。

 ね、というのは、先日29日が、家内、いわゆるここの長女であります豊美の、ね、ちょうど満40歳の誕生でございました。私は誕生日に思いました。もし、40年前に豊美が、ね、大坪家の人として生を受けていなかったら、今日の古川家、今日の古川一雄はどうなっておったかわかりませんと、こう言う。ね。ようも、言うならば豊美の40年前の誕生がそういう意味で、改めて有り難いと感じました。

 拝詞の祈念詞の中にもありますように。ね。神縁真に不思議にしてというところがありますが。皆さん、その一人ひとりが神縁真に不思議にして合楽に縁を受けたのですから。ね。その、縁をもっともっと不思議に感じなければならないと、私は思うです。昨日、一雄先生が、今自分が有り難いと思うた事を咄嗟に、まあ、出した訳でしょうけれども。ね。豊美の誕生なかりせば、今日の私はなかった。

 去年はあのように死ぬか生きるかといったような病気も致しましたが。本当に、おかげで助けて頂き、合楽教会をバックとして今日私どもが、夫婦があるという事が、ただ、御神縁の深不思議に、ただただ有り難いとこう言っている。ね。どうでしょうか。合楽教会が人もあんまり助からん。生き生きとしたごひれいもない。それは、あそこの、合楽の長女ばもろうたばってん、もうほんにロクな事はなかち言うんなら、どげな事っでしょう。
 ね、そこにはそれだけの感じるものがあり、おかげを受けておる者があるから、本当にようも合楽にご縁を頂いておった、合楽がバックであった事が有り難いと、もう、言うなら一雄先生が最近、今、一番有り難いと思うておった事を発表したと思うんです。皆さんどうでしょう。何が何と言うても、合楽に御神縁を頂いたという事が、有り難い。

 言うならば、金光教が世界の名教と言われる、いわば百年この方言われてきたけれども、はたしてどこが、その名教たる所以かと言われると、さほどその名教としての、あるのです。名教なんです。けれども、名教としての値打ちを感じる事も、どこがという事は言えなかったけれども。最近、次々と全国の教会長を集めて、御本部で教会長心修会というのがあっております。

 さきほど、若先生が今度の九日から、九日からですか行くの?が、参ります、という、あの、発表があっておりましたが、やはり今度はちょうど私の方は、その九日から十三日までかね。までの、になっておりますので、若先生が、まあ、参る訳ですけれども。その、言ならもちろん、明百年祭に、を控えての、教師の信心研修でございましょう。それに、今まで教祖金光大神が説かれた御晩年の御教えというものが皆に発表された事がなかったんです。3~4日前から、ここの佐田秀樹先生が箱崎教会の、まあ、御長男ですから、箱崎教会の教会長の代わりで、本部の方へ、二泊三日でしたか、参りました。

 昨日、研修の時に、あちらで研修した、来た話やら、またはあちらで頂いて来ておるその教祖様の夢発表であるところの御晩年の御教えというものをご本にした物を頂いて帰っとりましたから、それを説明を受けながら読んでもらいました。一カ条、一言一言を聞かせて頂きながら、驚きでした。合楽でここ数年間言われて来たような事が、その当時の言葉で、言うなら、教祖様の御感覚で説かれてあるのです。ね。

 三日間の研修の中にです、ね、先ずはお話を聞くばかりではなく、こう座談会のような事もありますから、こう、判別懇談のようなのでしょう。そこで皆先生方がです、ね、今日聞いた話は難しいから分からん。分からんからこれ一時ばかり棚に上げて、まっ、他の研修を致しましょうというような会合だったそうです。そんなに難しい、分からない。

 教祖様が教えておられる、それを、なら合楽の人が聞いたら、ね、まあ、合楽理念を勉強しておる人ならば、ははあ、これが合楽ではこう言われるとこだなあ、ああ言われるとこだなと分かる、感じれるような御教えばっかりなんです。ね。教学所長の福島という先生はここにもお話一遍見えました。先生が言われました。これは、もういよいよ、ね、合楽理念に基づかなければ分からん。合楽教会に教えを乞わなければ分からんと、まあ、いう意味の事を言われるように、私には聞こえたんです。

 ところが、と言ったら、いや、それは私が思いましたと、佐田先生が言ってるんです。ね。佐田先生がその話を頂いて、私どもはそれが御神意がどこにあるかという事がわかる、合楽で御理解を頂いておるから。例えばあの、何て言うですか。ね、仏教で申しますと、ね、(なんみょうほうれんげいきょうで)法華経。これはお釈迦様のいよいよ晩年の時の教えだという事です。ですから、もうお若い時に説かれたのは、もう嘘だと言う。

 ね、こう言ってしまう訳ですね。御晩年の時のつが一番、正しくて本当なんだと。ね、合楽では、それも本当ではないという風にも説く訳ですけれども。ね、教祖金光大神はそういう、言うならば、それこそかつての宗教者が、ね、数千年に渡って説いて来た事のないほどしの素晴らしい、人間が人間らしゅう助かって行けれる手立てを、教祖は事細やかに説いておられます。

 例え自分の心をかけ裂くような事があっても腹を立てるな。神の事を知らんからじゃというような言葉があります。ね、それを、んなら、合楽ではです、ただ腹を立てるなとは申しません。ね、その事じたいが神愛なんだ。神様のお言葉なのだと、なぜお言葉の中になぜ腹を立てては勿体無いのか、むしろお礼を申し上げねばならないのかという事を御理念で説きますでしょ。

 また、それを土の心、成り行きを尊ぶというような信心で、それを明らかにして行って、なるほどそれが神愛であるという答えが出て来るところまで、教えを説くでしょ。ね。私はその話を聞いて、私が耳が遠いからね、聞き損なうて、福島先生がそげん言うたり、思うたりしなさったかと思うたら佐田先生であったけれども。ね。なら、本当にです、合楽に傾倒する先生方があって、ね。教祖のこの難しい御教えを合楽理念に基づかなければ分からないというような事が、もしこう、浸透して行く。

 まあ、それに傾倒する方達があって、合楽の信心を、言うならば研究しよう、分からせてもらおうというような人達が、まあ、出けて来るに違いはない。本当なものは、本当なものとして必ずいつか世に出るのである。ね。それは、とてもダイヤの、光り輝くダイヤの一粒がです、砂の中に落ちておっても、ね、やっぱそこから光を燦然と放ちますから拾い上げられるように。合楽の信心も必ずそういう時期が来るだろう。ね。

 そういう時に、なるほど合楽教会に行ってみると、合楽で言われるとこの教祖金光大神の御教えが十全だという、こんな風に説いたのも、過去の金光教にはなかったですね。もちろん、他の宗教にもありません。十全のおかげが受けられる教えである。しかも、それは至難なものではなくて、人間が、ね、人間らしゅう生きる生き方をさせて頂きながら。ね。その気になれば誰でもがおかげが受けられる手立てという風に説きます。ね。

 昨日、朝の御祈念の時に、今、福岡の高橋さんところのご夫婦、奥さんも一緒にお参りをするようになった。もうこの頃、奥さんがお参りしてくるようになったけん、お取次ぎのしよかこつ、しよかこつばさりある。これは不思議ですばい。はい。彼方達が一人でお願いしたっちゃ、(ぎりっとん行こうかん?)時はやっぱ家内ば連れて来なさい。必ずおかげになるです。私がお取次ぎがしよかですもん。ね。

 ほわあ、なかなか、そのこう、何と言うでしょうか。お徳に触れて行くパイプですから、もう毎日のようにお知らせを頂きます。今朝方も、もう一緒にお参りして来る途中に頂きました。もう沢山なご飯を炊いておるところでした。下にはもう、三色すみれがもういっぱい、もう紫のね。三色すみれがいっぱい咲いておるところを頂いた。ああ、素晴らしか。これは、今朝でしたでしょうか、桜井先生がお届けをしておられました。

 御祈念中に頂かれる。御大祭の時に、お供えをするあのブリのお供えがこう。それをこう麻で絞ってあります。その絞ってあるのがプツッと切ったところを頂いた。今まで絞られておった窮屈な、言うならばそのブリが、ね、こう楽になった、と思うたら、それがマグロに変わっておるというお知らせでございましたと言うのです。皆さん、どういう事だと思いますか。ね。お互いがブリブリとしたようなおかげを頂きたいと思う。もう、これはね、そのブリブリとしたおかげは、お徳を頂かなければ頂けんです。

 ただ願った事が成就したといったような事じゃ、そのブリブリとしたおかげは続かないです。お徳を受けにゃいけません。もう、合楽ではお徳を受けるために御神縁を神様は下さった。それこそ、霊妙深不思議な御神縁を下さったのは、ね、合楽に御神縁を頂く一人ひとりにお徳を下さろうとする働き。そして、金光大神が、ね、百年がかりで、今日の御理解がそうでした。ね。金光大神が天地金乃神より教えを頂いた。

 ね、それを話して聞かせるのだけれども、聞かん者は仕方があるまい。親でも仕方があるまいが。時節を待っておかげを受けたがよかろうと、こう教えておられますが。なら、百年経った今日の金光教でです。ね、教祖金光大神がこうすりゃおかげを頂けるということは、金光大神はそう言われるけれども、けれどもそれを実行して来てない。ね。荒行は、より心行をせよと仰っておってもです。ね、やはり、お徳を受けるためには荒行をしなければ、水をかぶらにゃ、火の行、水の行をやって来たんです。

 今でも、やっぱそれが本当だと思っておる。金光大神が、それこそ物を言いなさるならば、歯痒い思いをいくら言えば分かるかと仰っておられるような感じがする。これは、その御教えだけじゃない。ね。他にも沢山、合楽で説かれる教祖金光大神の御教えをいよいよ感じきっていなかった、頂けなかった、分からなかったところが、深く広く説かれてある。ね。ですから、百年目に初めて合楽誕生と同時に、金光大神の御教えがこんなにも神縁なもので、こんなにも、ね、前代未聞のもので、ね。

 過去数千年の、言うならば様々な宗教があったけれども、初めて人間が人間らしゅう助かって行けれる手立てが、金光大神の教えによって、その教えが百年間続いてきたけれども、それを解き明かす者がいなくて、ね、合楽によってそれが成就、いわゆる時節到来である。ね、時節を待ってと教祖が仰っておられる。その待っておられた時節が、百年目にしてようやく説かれる事になったのが、今、合楽で言われる御理念なんです。そういう、言うならば有り難いものなんです、値打ちなんです。

 その御理念が頂けるという事が、嬉しいのだ、有り難いのが。今までかつて味わうた事のない、聞いた事のないお話が頂かれるという事が、ね、有り難いんだ、さっ、今日はどういう構えで、なら教えを頂こうかという風に構えを作って、その事の頂ける事を喜びとし、楽しみとして。今日、安東さんが、それこそご本を読まれて感動をしておる。だけではない、いわば初めて見たように、一番はじめのところに私の写真が載っておった。途端に、その感動が爆発的にこみ上げてきた。

 という内容のものを、日々ここで頂いておれれるという事ですから。それが身につき、ね、それが血に肉になって行かなければ、んなら、そういう御理念も値打ちがない事になるでしょうが。ね。それにはね、やはり辛抱力もいる、真心の追求もいるのです。だから、その辛抱力もです、ね、合楽で例えば朝参りをなさっておられる方達が、ね、眠うもあった、きつうもあったけれども、段々信心が身について行くという事が有り難うなって来て。

 北野の秋山さんじゃないですけれども、長年、椛目時代からの総代を続けて来て、まあ、一角の立派な信者のように思うておったけれども、その朝参りすら出けなかった本当に。それが最近、この、去年の夏からですかね。お母さんと二人で朝参りが出けるようになった。もう最近、もう78歳だそうですが。ね。78歳にして、初めて合楽の信心の、言うならば真価に触れる事が出けるようになって、朝参りが楽しゅうなって来たとこう言う、有り難うなって来た。ね。

 ですから、もうそこにはしるしさというものが無くなって来る。辛抱力というか、それは辛抱力をじゃない、辛抱の徳を身につけて行くということなんです。桜井先生が頂いておられるという、言うならば、今はこうやって締め上げられておるところでもあろうけれども。なるほど、子供達の上でも、夫婦との、もうそれこそ、まあ、大変な修行をさせられております。けれどもね、この修行が成就したあかつきには、神様がこれをプツッと切って下さる時期が必ず来る。

 そして、それを真の修行として受けて下さる、神様の準備が出けて来よる。マグロという事は、真の苦労、いわゆる、真の修行としてと私は思うですね。ブリブリとしたおかげを頂く為には、神様が私どもの修行を本当に受けて下さる。さきほど吉井の林さんがお参りして見えて。今朝方からお夢を頂きました。もう、本当にお夢の中でしとぐ?だけ蛇を抱えております。あんまり重たいけん、それを離したところを頂いたが、どういう事でしょうかち。

 分かるでしょう皆さん。ね、蛇と言やあメグリ。合楽でご利益が新たかであるという事と同時に、ね、神様がメグリのお取り祓いもまた、新たかな働きを見せて下さるんです。今、んなら、桜井先生とか高橋さん達なんかの場合なんかを、今こそ真価、本当のいわば修行を求めておられる、マグロの修行を求めておられる。また、マグロの修行として受けて下さろうとしておる働きをそこに感ずる。ね。

 私は今度、佐田先生があちらへ行って、行かせて頂きます教祖様の食生活がずっとお話に出て来る。私の今の食生活と同じような、その裏づけをするような感じのお話を聞かせてもらって、感動しました。ね。同時にまた、教祖様が一生懸命の、言うならば神様から頂かれてのご修行が、まっ、本当に、まあ、あられぬ行もなさったというのは、四年半であった。皆さんがここで頂かれますように、私があられもない行をしたのは、四年半であった。

 何かこう、合わせ鏡のように同じじゃある。その御教えを頂いて、解明されて、まあ、合楽で解明されて行く事でしょうから、皆さんもいよいよ教祖の御教えの御晩年の御教えが、今、合楽でそれこそ、もうそれこそ粒さに説かれておるという事実に触れられたら。ね、合楽という所が、もっともっと有り難いものになって来るだろう。ね、そん為にはね、もうそれこそ、高橋さんところの奥さんじゃないけれども、矢継ぎ早におかげの頂ける、本当に心が解凍するようなお知らせを頂いておる。

 沢山な人がままになるおかげを頂いておる。もう三色済んで、まっ、それは本当な事は出けんにしても、まっ、可愛らしい事じゃあると、神様が思われるような心を使いながら、その修行に没頭しなければならん。何年間も、十年も十五年も修行が続くということはおかしい。ね。ヤーッと言うて、やり抜かせてもろうて、ね、お徳を受けなければいけん。ね、いつまでもブリブリと、ブリがこう絞られておる窮屈さではいけない。

 これが解かれて、しかもそれが、神様が真の修行として受けて下さるようなおかげにもなる時に、ね、初めて、ね、合楽の信心の素晴らしさ。そういう、例えば、んなら、修行の受け方でも、その林さんじゃないけれども、(    )もあるような沢山な。ね、蛇を。合楽にお参りをして来ると、おかげも新たかだけれども、メグリのお取り祓いにかかって下さる事も有り難い。蛇は、言うならそのままメグリであろう。

 ね、そのメグリのちっさに取り落としてしまうような事では出けん。それを、いわゆる頂かせてもらう。昨日、あっ、ここの田中さんでしたか。ね、田中豊子さん。これは昨日の朝でしたけれども、沢山な蛇を鍋で煮ておるというお知らせであった。ね。それを子供達に食べさせんならんというとこであった。ね。とにかく、その、神様頂きますという心あらば当たる事なしという事は、都合のよい事だけを頂きますじゃない。自分の好きなモンだけを頂きますじゃない。

 嫌いなもんであっても、神様頂きます。少しだん、これは悪うなっとるような物であっても、頂きますという心あらば当たる事はないのです。メグリもそのまま頂きますという心で頂かせてもらいよる事を、神様は教えておられるのです。取り落としちゃ出けん、せっかく神様はめぐりをここに集めておられるのですから。それを、私どもが、言うならば一切の事柄に御の字をつけて、御事柄として受けて行くというような信心。

 そういう信心が身について来る時に、またそういう信心を教えて頂くという事が、有り難いと分からせて頂いたら、いよいよ合楽の言うならば信心が梅のようなものになるのじゃないでしょうか。合楽と思うただけで、唇が垂るような。親先生と(    )涙がこぼれるような。ね、そこまでにね、お教会と皆さんとの間に、私と皆さんの間にです。そういう情感が通うような信心を頂きたい。

 それには、教えによって通じて行く以外にないです。教えによって通うて行く以外にないです。古川先生じゃないけれども、40年前にもしここの長女豊美が誕生という事がなかったら、という不思議な不思議なご縁に結ばれて。私はそのお話を昨日聞きながらね、私が、あの人達が結婚してもう二十何年でしょうが。ね、御本部で結婚式のある時、それこそ金光家の方達が、もうキラ星のような先生方やら、お家族の方達がおられる所で、大坪先生、一口挨拶をしてくれと言われる。

 こっちは全然そんな気はなかった。金光様の息子も座っておられる。ね、それに、私がまだ、下座に行って、まっ、ご挨拶をさせて頂いた事を思い出させて頂いたんですけれども。私が開口一番、教祖の神様が、信心しておかげのあるを不思議とは言うまじきものと仰せられておりますけれども。私は、日々が不思議で不思議でたまりません。今日、古川家と大坪家の結婚なんか、もういよいよ持って不思議で不思議でたまらんという事を、開口一番に申しましたんです。

 その事を、んなら、数十年後の今日、古川先生が実感しておる訳です。ね、そこに霊妙深不思議なご縁というものの不思議さをです、感じれば感じるほど、そのご縁をいよいよ尊い有り難いものに育てて行かなければならない。そこには・・・(b面へ)・・・合楽に対する、言うなら念というか、思いをいよいよ強く、もっともっと、ね、言うならば高橋さんがなさっておられるような修行。または、桜井先生辺りがなさっておられるような修行もです、それこそ合掌して受け、ヤ―ッという心で受けぬいて行く。ね。

 このしだごだでは、何時まで経ってもおかげにならんです。そこを一つやり抜かせてもらう、言うなら手立てが合楽では、ね、説いてございますので、それを頂いて、それを身につけ血にして行かなければね。それこそ、合楽にと思うただけで、いや、ね、よく皆さんが申しますように。ここのお手洗いに立っただけでも何かジーンとしますと。障子を開けて入って来ると先生がここで御奉仕をなさっておられる姿を見ただけで、思う事が無くなってしまう。

 もう、そげん時には、必ずおかげになる。お届けを頂かんでもお願いをせんでも。ね、そういう、言うなら働きがです、そういう信心の交流がいよいよなされるおかげを頂きたい。佐田先生のお話を頂いて、言うなら佐田先生がそのお話を聞きながら実感したのは、この難しい教祖様の御晩年の御教えは合楽理念を持ってしなければ分からないだろうと思うた。また、事実そうである。

 ね、ですから、その御理念によって日々信心生活させて頂いておる一人ひとりが。ね、御理念による助かり、御理念によるところのいよいよお徳を頂き、育てて行くところの実証を、一人ひとりがなさっておらなければ。ね、なら、本部中央からです、んなら合楽理念によって教祖の御教えを分かろうとやって来た時に、なるほど合楽では確かに十全のおかげであろうと思われるようなおかげが現れておっても、そこに集まって来る信者の一人ひとりが、やはりそういうおかげを受けておらなければ、はあ、やっぱ大坪さんな腑が良かっじゃろうんなってしまうです。ね。

 私のここで頂く教えをです、本気で皆さんの、ね、心の中に、家庭の中に。今日はあの、宮崎の方からお参りして来る、毎月一日だけには毎月夫婦で参って来る方があるんです。本当にもう思いっちゃ恐ろしゅうございます。この人達が参って来る時は、もう必ずどんな寒中でも苦ごおりをどこでか探して持ってみえるんです。それで、お父さんと二人で、本当家にも苦ごおりばどうか、どうしても作る方法はなかじゃろうかち言って言いよったら、この頃、あのこの、角内ですかね。隣組でその、花、花の種の配給があった。

 そしたら、私の方のは、苦ごおりの種でしたち。もう、お父さんと顔見合わせて驚きました。今日も、あの、少しばかりの苦ごおりを持って見えておりましたが。こんな、何かこうそれこそ、まあ、(せんよくしょう?)のような紙を持って、それにこう、五ヵ条を色々書いてある。どうでも合楽の神様を奉祭したいと思います。ついては、神様がお住まい良い家庭に、私とこの家庭をお育て頂きたい。そして、お許しを頂いたら、どうでも神様を一日も早く奉祭のおかげを頂きたい。

 今のような家庭では、神様が心良う、いわば鎮座益々事も出来ますまい。ね、神様を奉祭し良い家庭に劣り立て下さいという事を書いてある。皆さん、そういう願いを持たなければいけませんよ。ね。そして、本当に神様が十分に、ね、働いて下さる事の出けるような神様もお祭りをさせてもらい、和賀心にも奉り。ね、いよいよ、ね、合楽との交流をいよいよ深めさせてもろうて。

 いつ、どこから合楽に勉強に見えられた先生方が、ね、ありゃ、大坪さんだけではない、お教会だけではない。信者の一人ひとりがああいうおかげを受けておるんだという実証を、皆さんが一人ひとりでして頂きたいという風に思います。さきほど、お届けがございましたが。福岡の古屋さんのところのおばあちゃんが、満102歳で数時間前、亡くなられました。ほれで、こっから竹内先生と末永先生と、まあ、仮の洗礼のために参りました。ちょうどその、お届けのあった後に、ね、ある方がもう(ひとふだき?)それこそ、あの、ユリの花の咲いたもの、ツボミのものをひとふだきお供えになりました。

 ね、私はもう本当に感動しました。とにかく、ちょっと走って、もう出とらんならば、これを託けて下さいち言うたら、もうほんな出掛け(     )やった。おかげで、ちょうど出掛けに間に合いましたて。もう、何かこみ上げて来る有り難さでね、おばあちゃんの名前がゆりて言いよったんです。古屋ゆりと頂いた。それを、こう今、ひとふだきのユリをもってね、今、仮洗礼に参りましたが。

 ね、合楽の言うならば、もう(長座ばんづけの?)最高の方が今日そのようにお国替え。2~3日前、風邪を引いておられたけれども、おかげを頂いたというお届けがあっとった。毎日お届けがあるんです。ったら、さきほど、もうそれこそ、もうそれこそ何時の間に亡くなられた分からんようにして亡くなられたというお電話を頂いた訳でございますけれどもね。けれどもその、どうでしょう。ひとふだきのユリの花。どう思われますか。

 合楽にはそういう働きがいつもあってるんです。うん。ですから、それを受けとめるのは、結局は皆さんの心しだいである。さきほど光昭が申しましておりましたように。心一つをね、言うなら御理念に基づかしてもらう生き方に、いよいよ、ね、一心発起をさせて頂いての御信心であり、おかげであらなければならんと思います。どうぞ。